独立に踏み出せた理由は「CIコンサルタントのスキルで地域貢献したい」という強い想い

作成日:2022年12月5日(月)
更新日:2022年12月5日(月)

みらいワークスがお届けする「プロフェッショナリズム」、今回のインタビューは二村宏志さん。ダイビング雑誌の編集長を経験したのち、CI(Corporate Identity:コーポレートアイデンティティ)や企業ブランディングを手掛けるコンサルタントへ転職されました。その後起業され現在は薫習メゾスコピアの代表として、企業や自治体向けにコンサルティングを手掛けています。

雑誌の編集長時代には、さまざまな企画をプロデュース。当時「男性中心の冒険」と言うダイビングのイメージを大きく変えた立役者だったそうです。

独立後は「日本の地域固有の自然や文化を大切にしたい」という想いから、CIやブランディングを活用した地方企業の支援に取り組み、「地方活性化こそ自分のライフワーク」と語る二村さん。経験やスキルを生かし、本当にやりたいことにチャレンジする二村さんのインタビューをぜひお読みください。

二村 宏志

今回のインタビューにご協力いただいたプロフェッショナル人材・コンサルタント

早稲田大学理工学部卒業。ダイビング雑誌の出版社を経て、CIコンサルティングを手掛ける株式会社パオスへ入社。NTTや銀座松屋、マツダなど大手企業のCI手法を学ぶ。   1994年に独立。独自のブランドマネジメント論を構築して、さまざまな企業のブランド・CI戦略の立案に関わる。1998年からはブランドマネジメント手法を地方活性化に生かす取り組みをスタート。南アルプス市のプロジェクトを担当するほか、全国各地で講演や研修を行う。2015年には一般社団法人むらまち結びの理事に就任。著書に「地域ブランド戦略ハンドブック この1冊で、明日から地域のブランド戦略が企画できる!」(ぎょうせい)。

二村 宏志

好きなことを大切にして、理工学部からダイビング雑誌の出版社へ

インタビュー後 みらいワークスオフィスにて

 

二村さんは学生時代、「閉鎖式ダイビング呼吸装置の開発」というテーマで卒論を執筆されたと伺いました。その頃からダイビングに興味があったのでしょうか?

 

二村さん(以下、敬称略):最初のきっかけは高校1年の夏休みに行った、沖縄です。シュノーケリングを体験して、海の色に感動しました。

 

私のいた早稲田大学理工学部では、3年になると研究室を選びます。たまたまダイビング関係のテーマを研究している先生の研究室があって、ダイビングができるという単純な動機で選びました。実際にダイビングを習得できましたし、その延長でいろいろなことを経験できました。

 

私がいたのは機械工学科で、基本的には機械部品などの開発を学ぶところです。だからダイビングと出会わなかったら、おそらく自動車メーカーに就職して自動車部品の設計などをしていたと思います。実際、周りはそういう学生がほとんどでしたから。

 

周りの方とは大きく違う道に進んだのですね。

 

二村:卒論はチームで研究するのですが、もうひとりの同輩は大学院に進んで大手総合商社へ入社しました。これはすごくまっとうなルートです。そう考えると、普通文系の進路である出版社、しかも零細とも言える規模の企業に入社した私は、本当に異端児だったと思います。

 

大学卒業後は出版社のマリン企画に入社され、ダイビング雑誌の編集に携わったそうですね。出版社として海に関わろうと思ったきっかけは何ですか?

 

二村:編集がやりたかったわけではなく、世界のいろんな海でダイビングできるかなという不純な動機です。親は、呆れていました。

 

ダイビング関連で言うと、ダイビングショップやスクールといった選択肢もあります。学生時代ダイビングの訓練を受ける時ショップやスクールとの接点はあったので、おおよそ仕事内容はわかっていました。

 

その上で、そこではないかなとは思っていました。例えばスクールだと、海域が固定されます。習いたい人がそこに来てダイビングを教えるので、あまり移動しません。私は旅も好きなので、「いろんな海を見てみたい、いろんな場所に行きたい」という想いが強くありました。雑誌を見るといろいろなところに取材に行っていますよね。だから雑誌社を選びました。

編集の枠を超え、産業構造の変革に寄与。これが次のキャリアへつながる

ダイビング誌編集長として読者ターゲットを女性シフトさせていた頃の表紙(1987年5月号)

 

その後、二村さんは雑誌「ダイビングワールド」の編集長に就任。そこで編集方針として、男性向けの冒険と言うイメージの強かったダイビングを女性にも広め、おしゃれなレジャースポーツとしてイメージを変化させたとお聞きしました。

 

二村:イメージの変化については、かなり貢献したと思います。例えば私が入社した当時のダイビング(ウエット)スーツは、漁師向けと変わらず完全に「黒の道具」の扱いで、デザインも女性向けではありませんでした。

 

イメージを変えたいと思って、はじめたことのひとつがウェットスーツデザインコンテスト。特に、女性が着てみたいというデザインを読者に応募してもらい、優勝者には実際にそのデザインでウエットスーツを作成し贈呈するという、スーツメーカーを巻き込んでのイベント企画でした。

 

他にも女性を意識した変革はいくつかやりましたね。沖縄などでダイビングをするとき、現地のダイビングサービス店を利用します。タンクを貸したり、沖に出る時に船を出したり。そのほぼすべての店は、男性がオーナーであったり海の中を一緒に潜ってガイドしたりします。まさに命を預けられる頼もしい「海の男」と言う感じで、カッコいい人が多かったんですよ。

 

冬の閑散期になるとガイドは時間が空くので、彼らを集めて読者と触れ合えるファンイベントを企画しました。あとは彼らの紹介記事も工夫しました。単なる店舗紹介ではなく、詳しくインタビューしてもっと人物にフィーチャーしましたね。

 

また、取材撮影時には女性水中モデルを多用し、表紙などにもなるべく女性目線の「憧れ」を表現するよう編集しました。

 

それまで読者は圧倒的に男性でしたが、イベントや誌面作りで女性目線を意識したところ女性読者は急激に増え、それが職業選択にも波及し、ダイビング産業全体の男女構成比が急激に変化しました。

 

雑誌の売上部数も伸びたのではないでしょうか?

 

二村:そうですね。当時ダイビング雑誌は3誌あって、私の手掛けた「ダイビングワールド」はだいたい2番手でした。私が入社した頃は1位と大きな差がありましたが、私が編集長になってからは1位になったこともありました。

 

このころから地方と関わりの深いイベントに取り組んでいたわけですね。これが現在の地域活性化の取り組みにつながっているのでしょうか?

 

二村:今になって思うと、原体験に近かったかもしれません。ちょうど航空会社や旅行会社がダイビングをテーマにした商材を扱い始めた時代で、企業とのタイアップ取材が増えた頃でした。ただ海の中の楽しさだけではなくて、いかにその地域の魅力を伝えるかを意識していましたね。当時の仕事を通じて、観光や地域経済に貢献できる面白さに気づいた、と思います。

CIコンサルタントへ転身した理由は、社会的な価値を生み出す仕事の面白さに気づいたから

PAOS時代に手掛けた、ZEXEL社の商品リーフレット(1993年頃)

 

その後CIやブランド戦略のコンサルティングを手掛ける株式会社パオスに転職されています。編集というお仕事と全く異なる業界に転職されたのは、どんな理由でしょうか?

 

二村:何年か雑誌の全体を見る立場にいると、私自身で記事を書いたりページを持ったりすることは少なくなりました。一方でさきほどお話したイベントの企画とか、旅行会社のタイアップを決めてくるとか、プロデューサー的な仕事が増えてきました。そういう中で、何かを企画して生み出す仕事って面白いなって思ったことが転職した理由のひとつですね。

 

もうひとつは、平たく言うと少し飽きてしまった。ダイビング自体は季節的に波のある商材ですが、月刊誌なので、1月から12月まで毎月雑誌を出すことになります。そうなると、例えば本州がまだ肌寒い時期は沖縄特集、温かくなる月は伊豆七島、というように毎年季節ごとの月のネタが決まってしまう。それを何年かやっているうちに、もっと何かを生み出す仕事がしたいなと思うようになりました。

 

ダイビングへのこだわりはもうなかったのでしょうか?

 

二村:実はゼロではありませんでした。これはパオスに入社した理由の一つでもあります。当時は全国各地に自治体と企業が協力してリゾート計画を立てて国が認めると補助金が出るという政策がありました(編集部注:総合保養地域整備法、通称リゾート法)。例えばハウステンボスの前身である「オランダ村」はその政策でできた施設です。

 

パオスはそういったリゾート関連の案件も手掛けていて、そこに惹かれました。自然豊かな地方のプロジェクトに関われるかな、と思ったんです。

 

例えば、沖縄でリゾートホテルを経営する企業から「もう一段イメージを変えたい」という依頼があって、私も現地を視察したことがありました。これは実際にはプロジェクトにまで行きませんでしたが、積水化学の宮城県のプロジェクトには参画しました。

 

ご自身の興味とつながっていたわけですね。ところで「CI戦略」という言葉はあまり聞き馴染みがないのですが、どういったものでしょうか?

 

二村:確かに「CI戦略」というワードは、過去の文脈で語られることが多くなりました。関わる者としては少し寂しいところですが。

 

簡単に言うと、企業の顔やイメージを変える戦略です。わかりやすいものでは、社名を変更したり、ロゴデザインを変えたり、ネーミングはそのままでシンボルマークを新たに作ったりしてイメージを変えることです。

 

最近の事例で言うと、Facebook社がメタに社名を変更しました。これはまさにCI戦略です。社名だけではなく商品名を変えるケースもあります。例えば、ケンタッキーは最近定番商品のひとつを「サンド」から「バーガー」に変更しました。40年くらい「サンド」と言う名称を使っていたので、大きな変更だったと思います。

 

実は、パオスのCI戦略に取り組んだ企業のいくつかが大躍進したことで、1980年代以降CIがブームになりました。ただパオスがやっていた深度の深いCIと違って、表層的に真似たものも多かったのも事実です。

 

ロゴや社名の変更となるとクリエイティブな分野なので、デザイン会社がどこもかしこも「CIできます」みたいな感じになってしまったんです。そういう表層的なブームを経てしまったことで、「CIやって効果あるの?」から、今「なんだかよくわからない」という忘れられた用語になっていると思います。

 

本来の目的は、業績の持続的な向上や存立意義の認知獲得、優秀な社員のリクルートなどにあるので、今でも重要な経営戦略なんですが。

 

実際には、「本当に伝えたいイメージは何か?」というところから、クライアントと一緒に考えていくような感じでしょうか?

 

二村:まさにそうです。ヒアリングを社内でもいくつも繰り返し、企業のトップとも擦り合わせます。同時にやるのが企業理念の開発です。当然クライアントと一緒に取り組むのですが、「本当はこういうところを目指しているんじゃないですか?」なんて話にもなります。

 

そうすると事業領域の話になってきて、「実は今この領域でやっているけど、ここまで広げればすごく御社は伸びるのでは?」という提案につながることもあります。

 

そうなると、経営コンサルティングに近いですね。

 

二村:CIは完璧に経営コンサルなんですよ。ただ、お金や数字より、企業イメージだとかデザインとか理念とかの開発がまずある。その先に、先ほどお話したように新規事業開発なども視野に入るという流れです。

 

CIコンサルタントへキャリアチェンジしたとき、編集の経験は役立ちましたか? 

 

二村:基本的に、私たちプランナーはデザイナーではないので、戦略を企画立案する役割なわけです。そういう意味では、誌面やイベントの企画を積み上げていくところは共通していると思います。実際にパオスにも、編集出身の方は結構いました。

 

あと役に立ったのは、調査能力でしょうか。編集時代の取材を調査と置き換えれば、違和感はありませんでした。ただCIになると深度が深いので、専門的な手法を使ったり専門会社を使ったりしました。これは新たなチャレンジでしたね。

 

思い返せば、当初は本当に大変なことばかりでした。頭がパンクするほど考えなければいけなかったですし。ただ物事の整理の仕方や手法を学べたことは、大きかったと思います。

 

CIコンサルティングによって、達成感はありましたか?

 

二村:ありましたね。例えば私が関わったものでいうと当時「ヂーゼル機器」という自動車部品メーカーがありました。トラックは基本、ヂーゼルエンジンで動いているのですがそのヂーゼルの部品に強い、という企業だったんです。

 

でもやっぱり事業領域が狭いでしょう、もう少し領域を広げるなら社名もヂーゼル機器じゃないでしょう、ということになって。「ゼクセル」というネーミングを提案して、そのもとでデザイン開発したこともありました。

 

反対にコンサルティングで難しいと感じることはどんなことでしたか?

 

二村:顧客がすでに顕在意識の中で捉えている価値を提供しても、それほど業績は伸びません。だから、半歩先を行く商品なりサービスなりを提供することが重要です。

 

その半歩先が何か、これが問題です。半歩先って、すごく曖昧ですから。私たちコンサルタントもそうですが、クライアント企業がそれをどう認識するか、どうそこに向けて開発するかは難しい課題です。

 

ですから、私たちが提案しても、なかなかクライアント社内でオーソライズされないこともありました。先方の社長は納得してくれても、その先代の会長に理解してもらえなかったことも。特にパオスの頃は大きい組織のクライアントが多かったので、難しかった。これがある意味、独立するきっかけにもなりました。

ブランディングこそ地方に必要、という想いで独立

沖縄慶良間諸島水中遺跡発掘プロジェクト(1994年)
地方では、こんな絶景にも出会える。地域ブランディングのやりがいの一つ

 

その後30代で独立されています。いつかは独立しようという想いはあったのでしょうか?

 

二村:そんなに強い想いはなかったです。自分の強みや実力で何かできたらいいなと漠然とは思っていましたが、パオスに入ったときは、あまり独立を意識していませんでした。

 

独立したきっかけのひとつは、大手企業を相手にしていると、とんがった提案をしてもなかなか受け入れてもらえなくて、平均的に丸められることも多かったことですね。即断できる中小企業が相手なら、直にやり取りして一緒に伴走できるのでは、と。私の性格的に、大組織は苦手だ、と。

 

もう一つは、私自身の理念に立ち戻りますがもっと日本の地域に関わっていきたいという想いが強くなったからです。海が好きというのも、根源には「自然が好き」とか「生態系に興味がある」ということがあると思っています。

 

人も気候や地形、生態系の上で当然生きているので、文化もその上にある。それぞれの地域ごとに文化が結びついていて、その中で頑張っている地方企業があるわけですよね。

 

私はCIとかブランディングは素晴らしい手法だと思っています。だから地方の中小企業とか、地方そのものに自分のできることを提供していくことが、これからの私の道かなと思ったんです。

 

独立される方は、ご両親など周囲に独立した方がいらっしゃるケースが多いようです。二村さんはいかがでしたか? 

 

二村:両親は薬局を営んでいました。経営者と言えばそうなりますが、街の小さな薬局ですので。どちらかというと出版社で働いていた頃のほうが多いかな。外部スタッフはほとんどフリーランスでしたし、制作プロダクションも2,3人の規模のところが多かったですし。だからフリーランスや小さな事務所でやることのハードルは、あまり感じませんでした。

 

御社のホームページでは、地方創生に注力されていることが伺えます。ご自身でも「地域ブランド戦略ハンドブック」という書籍を出版されていますね。

 

二村:私は地方創生を「地域ブランディング」と呼んでいます。書籍は2008年に出したのですが、もともと日経新聞と組んだのがきっかけです。日経新聞社の中に地域経済を研究するセクションがあり、一緒に地域ブランドというのを世に問いかけようよ、ということで全国地域を回って、現場を見ながら戦略ノウハウを確立させて、一冊にまとめました。

 

二村さんが独立した90年代は、まだ地方創生という言葉はなかったのではないでしょうか。

 

二村:確かに地方創生という言葉はありませんでしたが、当時すでに地方の衰退は日本の課題になっていたと思います。国は結構昔から、補助金政策を手を変え品を変え打ち出しています。でも、それでできたものって、立派な劇場ホールだとか、農道なのに飛行場だとか。いわゆるハコモノ行政と揶揄される施策です。

 

それぞれの地域に、作る技術はものすごくあるんですよね。いいものを作っていたり、持っていたりする。でも売る技術がなかなかない。売る技術、すなわちマーケティングです。だからマーケティングの先端手法であるブランディングを地域活性化に生かすべきではないか、と思ったんです。

 

独立には自分の強みだけではなく、市場とバランスをとることも必要

山梨県甲府盆地では、いたる所で桃の花見が楽しめる(写真は甲州市にて)

 

地方では実際にどんな案件を担当されましたか?

 

二村:山梨県の南アルプス市の総合計画的なプロジェクトを主導しました。当時、地域CIという言葉を表層的に使っていた事例はありましたが、私のノウハウを取り入れた本格的な地域ブランディングは南アルプスがおそらく初めてだったと思います。あと日経新聞と組んだ連載記事は4年くらい続いたのですが、これをきっかけに地方から研修や講演の仕事が増えました。おかげでいろいろな地域へ行かせていただきました。

 

その中でファンになった地域というのはありますか?

 

二村:先ほどお話した山梨県の南アルプス市は、自然が豊かで食べ物もお酒もおいしい。あと桃の花がすごくきれいで、桃の花見をしに何度も行きました。東京では桜の季節はどこも混んでいますが、山梨の桃の花見は桜がちょうど終わった時期で全く混まないんですよ。

 

あとは宮城県の気仙沼市ですね。気仙沼ではカジキマグロのおいしさを知りました。カジキマグロは冷凍と冷凍していないものの差が実はすごくあって、それがわかるようになりましたね。気仙沼のものは冷凍せず流通しているので。煮付にしてもステーキにしてもいいですし、現地に行くと刺身でも食べられます。

 

経営者になって、会社員の頃と比べて苦労したことはどんなことですか?

 

二村:営業につきます。特に地方ではもともと予算が少ないことが多いですね。自治体の場合は補助金がとれたので、1年間専門家という形でプロジェクトに参加してほしい、という形が主流です。補助金は1年単位のものが多いので、その後継続するのが難しい。

 

そうなると予算が決まるのが夏頃で、翌年3月までに結果を出さないとならないわけです。ただ地域ブランディングの場合、短期で結果を出すのがほぼ無理というのが実情です。

 

地域ブランディングと言う仕事がまだあまり認識されていない、ということでしょうか?

 

二村:私自身は、例えば建築業における設計家だと思っています。コンクリート打つわけでもないし、高いところに上ってボルトを締めるわけでもない。でも設計図を描くことで、実際の建築の肝心な部分を担っている。設計家はしっかりと報酬が決まりますが、フリーのブランド戦略コンサルタントの場合、特に地域や中小企業相手では、そういう職業として捉えてもらえない。実際の事業や商品ブランドの設計図を描くことに自信を持っていますが、求めている人からみてもなかなか理解してもらえないところはあると思います。

 

ブランディングという言葉自体は広まっているのですが、まだ理解が浅いと感じています。広報程度に捉えている方もいらっしゃいます。大きな傘ではマーケティングでいいと思っていますが、その中にブランディングがある。さらにデザイン的なクリエイティブな感覚だとか、エンドユーザーの認知心理学的な視点を加えていくことでブランディングになっていくわけです。

 

なるほど。そうなるとこれからも「地域ブランド」という概念を広めることが大きな目標でしょうか?

 

二村:そうですね。地域活性化は私のライフワークだと思っていますので、地域そのもののブランディングに携われる案件をもっとやってみたい。地域に根付いた企業のマーケティングとか、ブランディングとか、自分の強みを生かして地域に貢献したいと思っています。特に、酒蔵支援に注力したいです。世界に誇るべき日本酒や焼酎は、地域を代表する食文化ですし、そのメーカー酒蔵は歴史的にも地域経済の中心です。この業界が衰退し今でも毎年数蔵が廃業している現実があります。酒蔵を応援することが、そこの地域ブランドの向上に必ず役立つはずなんです。

 

さきほどまだブランディングが理解されていないとお話しましたが、実はブランディングで大きな成果が出るというデータもあります。ある世界的な調査会社によると、ブランディングに長期展望で投資している企業は、投資していない企業と比べて倍ぐらい伸びがあるそうです。

 

目の前の売上を上げる活動しかしていない企業は、なかなか業績が伸びません。でも通常の予算を2/3くらいに減らし、残りの1/3の予算をいつ刈り取れるかわからないけれどブランディングへ回す。こういう企業が実は業績を伸ばせるわけです。だから小さな地方の会社も、ブランディングに取り組む必要があると思っています。

 

地方活性化は、弊社でも今後の日本に重要なテーマだと考えています。現在は地方企業と副業人材をマッチングする『Skill Shift』というサービスに取り組んでいます。ご利用者様からは「地方に自分でリーチしづらかったけれど、『Skill Shift』でやりたいことが見つかった」という声をいただいています。

 

二村:まさにそう思います。副業のようなライトな案件でも、それをきっかけに地域とのつながりができれば、広がりが出てくるのではないでしょうか。もう少しシニアの経験を買ってくれる案件が増えると、さらにいいと思いますね。

 

最後に、これから独立を考えている方、独立したばかりの方に応援メッセージをいただけますか?

 

二村:やはり個人としての強み、強い領域をしっかり確立すべきだと思います。特に会社に勤めている間は名刺で仕事をしているところがあるので。そうではなく、自分自身の強みをきちんと見定めることが重要です。

 

あとは私自身の反省点でもありますが、市場規模のある分野で独立しないとフリーランスは厳しい。確かにレッドオーシャンでは競合が多く、新人のフリーランスは目立てません。とはいえ私のようにブルーオーシャンすぎるのも問題です。生業としての確立や継続性が、課題となってしまいます。ここのバランスの取り方は難しいですが、強みと市場性のバランスをどうとるかが重要だと思います。

 

これから独立を考えている方は、そのバランスの中で自分をどう訴えるか。ここを考えておいた方がいいでしょう。すでに独立してそういう悩みがある方は、もう一度見つめ直して早めに軌道修正したほうがいいかなと思います。

 

本日は貴重なお話をありがとうございました!

 

ダイビング雑誌の編集から、CIやブランディングのコンサルへと大きなキャリアチェンジを実現した二村さん。成功の大きな要因は、前職のスキルや経験をうまく応用されていることではないでしょうか。さらにどんなキャリアにおいても、「海が好き、自然が好き」という気持ちを常にご自身の軸として大切にしていることが伺えました。

 

また、二村さんはご自身のスキルで地域へ貢献したいという強い想いを持ち、独立を実現されています。こうした理念や想いを持って独立される方々を、これからもみらいワークスではサポートしていきたいとあらためて感じました。