経営コンサルタント10年を経ての豊富な海外経験とゼロからの新規事業立ち上げで重ねる挑戦の歴史

作成日:2024年8月2日(金)
更新日:2024年8月2日(金)

みらいワークスがお届けする「プロフェッショナリズム」。今回は、外資系企業の日本参入支援や、日本だけでなく、ASEAN地域を中心とした数々の新規事業立ち上げなど、豊富な海外プロジェクト経験を持つ村松龍仁さんにお話を伺いました。

金融業界から転身し2001年にコンサルタントとしてのキャリアをスタートされ、業務プロセス改善から顧客開拓マーケティング、経営戦略、さらにはD2Cビジネスまで幅広く活躍されてきた村松さん。10年にわたるコンサルタントと会社経営人生は、挑戦の連続だったそうです。そんな村松さんの活躍の裏に隠された信念に迫ります。

村松 龍仁

今回のインタビューにご協力いただいたプロフェッショナル人材・コンサルタント

早稲田大学教育学部英語英文学科を卒業後、新卒で日系損害保険会社へ入社。その後、外資系のアメリカンホーム保険会社・アクサ損害保険株式会社で自動車保険の日本事業立ち上げに参画、運営管理を主導する。 2001年よりPwCコンサルティング合同会社にて経営コンサルティング業務に従事したのち、トランスコスモス株式会社・GMOペイメントゲートウェイ株式会社等で海外プロジェクトのマネジメント業務や投資、M&Aなどを経験。2006〜2020年までASEAN地域で事業責任者として複数の新規事業立ち上げ、現地法人マネジメントとして活躍。2023年に独立し、Dragon Techを創業。現在フリーコンサルタントと投資ファンドビジネスを展開中。

村松 龍仁

学生時代から海外志向。亡き父の背中とアルバイトでの学びが、経営者への道を後押し

生涯の趣味となったテニス

早稲田大学教育学部英語英文学科を卒業された村松さん。学生時代を振り返り、現在のキャリアにつながっていると思われる当時の関心分野やご活動などがあれば、お伺いしてもよろしいでしょうか。

 

村松さん(以下、敬称略):元々海外志向な部分があったので、大学でも英語を専攻し、発音やコミュニケーションなど教育的英語を学んでいました。

 

学生時代は複数のアルバイトも経験しましたが、中でも学びが多かったのは、大学卒業まで続けていたテニスコーチです。当時働いていたスクールは、定められた期間や講座回数を終了すると、退会か継続を選択できる仕組みで運営していました。

 

レッスンの後はゲーム感覚でボールに触れ合う時間を作ったり、気さくなコミュニケーションを心掛けたりして、生徒さんに楽しい時間を過ごしていただいて受講継続につなげられるように努めました。テニスのスキルを指導するだけでなく、継続率という結果に向けたプロセスを構築し、マネジメントに至る所まで意識しながら働くことができたので、やりがいのある環境だったなと思っています。

 

テニスコーチのアルバイトからマネジメントの体験をされているとは意外でした。元々、経営には興味があったのですか?

 

村松:経営者の父の背中を見ていたので、幼いころから経営には憧れがありましたね。父はアパレル企業を起業し、業績も好調だったのですが、創業から5年ほどすると父が体調を崩してしまったこともあり業績も次第に傾き始めて……私が高校生の頃にそのまま父は急逝してしまったんです。

 

父が亡くなった後は母が会社を受け継ぎましたが、相当苦労したと聞きました。「経営者なんて絶対になるべきでない!」と母には言われましたが、それでも生前の懸命な父の姿が目に焼きついて……。だからこそ、父が身に着けられなかったであろう経営にかかわる知識・スキルや経験を積み上げて、いずれは経営に挑戦したいと考えていました。

金融からコンサルタントへ。「その道の第一人者となる」がモットーの挑戦志向

 

新卒で損害保険会社へ入社され、その後もしばらく保険・金融業界でキャリアを開拓されています。現在の経営・コンサルタントというキャリアに、当時の経験や学びはどのようにつながっていると感じますか?

 

村松:取引先との関係性の育て方、他社との差別化についての向き合い方などは鍛えられたと思います。当時はまだ保険の自由化が施行されていなかったので、保険商品の内容も料金も他社と足並みを揃えなければなりませんでした。直販という業態もなかったので、代理店との関係性構築を強化することが何よりも重要だったんです。

 

その後保険の自由化施行とともに、保険料の割引や直販営業、宣伝広告が許可されるようになり、参入障壁が高かった外資系企業も日本へ参入することが可能となりました。勤続7年目でアメリカンホーム保険会社へ転職し、日本向けビジネスの立ち上げを先導したのち、フランス資本のアクサ損害保険にヘッドハントでジョインしました。

 

今となっては日本でもお馴染みの企業ですが、村松さんが土台を作られたのですね。金融業界でのご経験から、すでに海外キャリアへの礎が築かれているように感じます。

 

村松:そうかもしれません。特にアクサ時代は上司はフランス人ばかりだったので、コミュニケーションはすべて英語でした。特に損害保険業界は文化や法律の違いがあり、ヨーロッパで成功していたビジネスモデルが日本では通用しないこともありました。自分は日本の業界代表として、事業を成功させるために自分の価値観をもって仕事をしていましたが、説明しても納得してもらえないこともあり……しょっちゅう喧嘩してました(笑)。大学時代も学んでいましたが、スムーズな社内交渉のため、また事業を成功させるために当時は特に英語も必死に勉強しました。本当にサバイバルでした……。

 

アクサ損保を経たのち、2001年にPwCコンサルティングへ移られていますが、コンサルタントへの転身に至った当時の想いを振り返っていただけますか。

 

村松:もともとどこかのタイミングでコンサル業界への転職を考えていましたが、先にコンサルティング業界へ転職したアクサ時代の上司からの勧めがきっかけになりました。ちょうど立ち上げたチームも軌道に乗り、新たなステップを進めるのは今だとその時思いました。経営に関わる本を徹底的に読み漁り、経営に関する勉強を体系立てて始めていたころだったんです。いくつかコンサル会社の面接を受けましたが、PwCは外資系クライアントが多く、パートナーもアメリカ人で、環境に非常に魅力を感じました。

 

新たな世界で挑戦を始めたなかで、何かご自身で心掛けていたことはありますか?

 

村松:やはりコンサルタントである限り、アサインされるプロジェクトや業界・関連法などの知見はクライアント以上にインプットしておくことをつねに意識していました。最初にアサインされた長期間のプロジェクトは、連結を行なうための生命保険会社の会計システムのリプレイスに伴う業務プロセスの改善でした。当初決算処理に1か月超かかっていたところを、2週間のリードタイムに短縮するのがプロジェクトの目的でした。

 

当時は会計システムや会計・関連法もまったく知識がありませんでしたし、ましてやアメリカの会計基準なんて未知の領域。通勤時の電車に揺られながら、分厚いUSCPA(米国公認会計士)の試験対策本を読みひたすら問題を解き、とにかく知識を体系立てて叩き込んでクライアントに対峙する日々でした。

 

どんなプロジェクトであれ、かかわるものについては自分が第一人者となる。コンサルタント歴は10年程度ですが、その後、今も変わらず胸に刻んでいる心掛けです。

ASEAN地域でゼロからの事業立ち上げ。難易度が高いほどやりがいにつながる

デジタルプラス社インドネシア現地法人時代にメンバーと

その後はトランスコスモス株式会社、株式会社エル・ティ・ソリューションズ(現・株式会社エル・ティー・エス)のコンサルタントへ転身され、2006年からはASEAN事業開発責任者として現地企業経営ポジションで活躍されています。就任に至った経緯について、ぜひ教えてください。

 

村松:主席コンサルタントとして従事していたトランスコスモスから、当時担当していた海外プロジェクトの投資案件をやらないかと声をかけられたのがきっかけですね。投資の初期段階からかかわりました。ある程度事業が見えてきた段階で、これは一株主としてよりも事業主体として進めるべき事業だと確信してからは、連結子会社化するために保有株式比率を過半数以上にすることを他株主に交渉し、半年以上の交渉の結果、100%子会社化し経営トップとしてマネジメントを私が受け持つ形で着地しました。

 

ちなみにその事業はどのような内容だったのでしょうか?

 

村松:BPO事業です。真っ赤っ赤の赤字スタートでしたが、とにかく現場に入り込み、マネージャーと膝を突き合わせて抜本的な業務改善に取り組みコツコツと対策を講じていきました。オペレーター一人ひとりの業務能率やKPIをモニタリングしながら、効果的に一つひとつ施策を実行していくことで、利益率の改善に加えて、売り上げも伸ばせたことから最終的に無事黒字化を達成することができました。

 

続いてシンガポールにて事業統括拠点の立ち上げやデジタルマーケティング事業の創出、それに伴いシンガポールの広告制作会社の投資などを手がけました。周りのたくさんのサポートと投資先の社員と一丸となって進めた官公庁から大型プロジェクトを受注できたことはこれぞ達成感という感じでしたが、会社より社長賞をいただく副産物もありました。いつも大変な時は周りにいいメンバーがいてくれて、本当にありがたく思っています。

 

すべてがゼロからの立ち上げだと思うと、本当に大きな挑戦だったのではないかと思います……!

 

村松:そうですね。でもかえって、文化の違う場所で事業を立ち上げる難易度の高さこそが、やりがいに直結していたようにも思います。もちろんうまくいかなくて、悔しくて泣いたことも多々ありましたが、それ以上につねに新しいことに挑戦し続けていたかったということかも知れません。

 

長きにわたりASEAN地域でご活躍されてきた中で、現地での業務遂行において意識されていたことなどはありますか?

 

村松:これは日本人の方を相手にする際にも意識していることですが、とにかくコミュニケーションの機会を多く持つようにしていました。仕事中には現地のスタッフとよく話し、ときには終業後にお酒を飲んで、仕事以外の話題でリフレッシュしていました。

 

あと心がけていたことは、自分は現地で労働許可証をもらい、働かせていただいている立場だということを忘れないことでした。常に謙虚な姿勢を持ちつつ、ローカルスタッフや国へのリスペクトと感謝をもって生活して、仕事もしていました。

できることの幅が広がるのがフリーの強み。経験を活かして海外展開や事業立ち上げの支援を

 

現地より帰国された後は、どのような案件に従事されたのでしょうか。

 

村松:2020年からは、日系のヘルスケア企業の取締役として、アイケア商品の海外事業戦略にあたりました。カラーコンタクトの新規ブランド立ち上げなど、フィジカルな商品在庫を扱う領域についても初めての経験でやりがいはあったのですが、2023年5月に事業譲渡することになりました。

 

そのタイミングで、これからはクライアントワークよりも独立して個人でやりたいことに飛び込みたいと思い、Dragon Techを創業したんです。

 

独立以降は、どのようなビジネスを手がけていらっしゃるのですか?

 

村松:主に2つの軸で動いていまして、そのうち1つが、知人数名と海外プロダクトの可能性を検討して、日本展開のための出資を行う投資ファンドビジネスです。そしてもう1つがフリーコンサルタントですね。

 

コンサルタントとしては、ヘルスケア企業の経営管理や管理会計プロジェクトなど、複数プロジェクトの責任者として現在稼働しています。厚く信頼していただき、財務などの社内的な情報も共有いただけているので、ご相談いただく事案以外にも、私の方から幅広くご提案させていただいています。

 

これまでさまざまな経験をしてきましたので、私の知見が少しでもお役に立てればという想いでいっぱいです。

 

クライアントとしては、村松さんのように寄り添ってくださるコンサルタントがいることがとても心強いのではないかと思います。今後の展望について、何か考えていることはありますか?

 

村松:私の強みは、アイデア出し等のフェーズのゼロ段階から最終的な黒字化までを数多く行なってきたこと、そしてASEAN地域での豊富な海外経験にあると思っています。方法論もゼロからの立ち上げ、買収+PMIでの短期立ち上げ等状況に応じて行なってきました。ASEAN地域は人口も増え続けていますし、平均年齢もかなり若い。将来の労働市場を考えると、その可能性は世界的に見ても魅力の強い地域です。

 

もし今後海外展開を考えている企業があるとすれば、まずはASEAN地域を攻めるべきじゃないかと思っているんです。そしてそういった企業に対して、ぜひ過去の経験を活かして事業立ち上げと海外展開どちらも支援をしながらお役に立てればと考えています。

 

最後に、今後独立を考えている方に対して、メッセージをお願いします!

 

村松:個人的には、独立してよかったと思うことはいくつかあります。時間の自由度が増して働き方はコントロールできるようになったと感じますし、仕事をするうえではなかなか切り離せない人間関係の悩みもなくなりました。

 

くわえて、自分自身が中心になってプロジェクトマネジメントを実行できている点も嬉しく感じています。コンサルティングファーム時代はクライアントの課題に対して限られた部分までしか関与できず、もどかしい思いをすることもありましたが、今は私自身がPMとして主導するまで任せていただいているので、仕事の進め方にも満足しています。

 

失敗や苦労も含め、自分自身の過去の経験を最大限に活かして支援できるのは、独立後自由な働き方を手に入れたからこそ。コンサルタントとして大きなやりがいを感じたい方には、ぜひフリーの道も検討してほしいと思います。

 

本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました!

 

「かかわるからには、自分が第一人者になる」「自分自身の経験を最大限に活かし、クライアントを支援したい」など、村松さんがつねに前のめりな姿勢で歩み続けてきたことが言葉の節々から感じられる熱いインタビューとなりました。海外プロジェクトや新規事業など、失敗を恐れずにつねに挑戦を続けることで、自分自身の糧になり将来のキャリアが花開くことを、村松さんの軌跡が証明してくださいました。