フリーランスの放送作家からPR会社の経営者への転身 異色のキャリアをもつ起業家が語る逆張りの起業ストーリー
「ジャポニカ学習帳から昆虫がいなくなった」をバズらせたPRコンサルタント。放送作家として培われた経験値を武器にPR業界へ。
みらいワークスがお届けする「プロフェッショナリズム」、今回のインタビューは上岡正明さん。
なんと放送作家からPR会社の経営者に転身されたという異色のキャリアの持ち主でいらっしゃいます。普段は聞けないテレビ業界の裏側からPRを手掛けられた商品や効果的なPR術まで、面白く、そしてためになるお話が盛りだくさんです!
上岡 正明
今回のインタビューにご協力いただいたプロフェッショナル人材・コンサルタント
大学在学中に放送作家のアシスタントとして活動を開始。100本以上のTVヒット番組・ラジオの企画・構成・プロモーションPR、及び企画イベントのコンサルティングに携わる。29歳でPR会社である株式会社フロンティアコンサルティングを設立。企業のブランド構築、広報支援を主力事業とし、これまでに全日空や三井物産などのブランディングコンサルティング、スペイン大使館やドバイ政府観光商務局などの国際観光誘致PR、そしてマスメディアとネットメディアを融合したクロスメディアプロモーション支援を行ってきた。現在は総合PR会社代表として新たな広報のあり方を提案し続けるとともに、「日経ビジネスアソシエ」や「企業診断」などの業界紙・ビジネス誌での取材掲載、コラム執筆、バンタン専門学院の非常勤講師、商工会議所のセミナー講師としても活躍中。 株式会社フロンティアコンサルティング:http://frontier-pr.jp/
上岡 正明
放送作家としての将来に不安を感じ、パラレルワークで起業
PR会社の代表でいらっしゃる上岡さんですが、非常に面白いことをいくつも手掛けていらっしゃるとのことで、本日お会いできるのを楽しみにしておりました。
上岡さん(以下、敬称略):ありがとうございます。皆さんに知っていただいている有名な案件というとジャポニカ学習帳のPRでしょうか。「表紙から昆虫が消えた」というテーマでプレスリリースを打ったのですが、1ヶ月で6,000万人にリーチする勢いで話題になりました。人口の半分くらいにはアピールできた計算になりますね(笑)。
6,000万はすごいですね!社会人になってからずっとPRのお仕事をなさっているのですか?
上岡:実は最初のキャリアは放送作家です。大学在学中の20歳の時にアシスタントとして始めて、リサーチャーやADの仕事をしながら徐々に『めざましテレビ』や『スーパーJチャンネル』、『笑っていいとも』などに参加させていただくようになり、30歳くらいまでフリーランスの放送作家として働いていました。学生時代に流行していた『ヤングパラダイス』というラジオ番組に放送作家がよく出てきていたので、リスナーとして聴いているうちに自分も放送作家になりたいと思うようになったのがきっかけですね。
放送作家ご出身の経営者というのはとても珍しいご経歴ですよね。なぜ途中で起業という道を選ばれたのですか?
上岡:28歳くらいまでに放送作家として名前が売れたらいいなと思っていたのですが、うまくストーリーが描けなかったというのが一つありますね。放送作家の世界も俳優の世界と同じで、チャンスを与えてくれる人や引き上げてくれる人に出会わないと実力があってもなかなか上がっていけないのですが、私はそこが弱かったように思います。そういう状況だったこともあり「このままではいつか食いっぱぐれるかもしれない」という思いは常に抱いており、28歳の時に放送作家との二足の草鞋でPR会社を立ち上げました。
もう一人の役員と二人で立ち上げたのですが、当時は「ダメだったらまた作家に戻ればいいや」という軽い気持ちでしたね。結果的には、会社が比較的順調に拡大したことで責任も生じてきて途中で投げ出すわけにはいかなくなり、30歳くらいからは会社経営に比重を置きました。
ホームページを拝見して『愛と情熱』という企業理念にとても心惹かれたのですが、これも放送作家時代に感じられたことなのでしょうか?
上岡:プライベートな話になるのですが、幼い頃に母親が亡くなってしまったこともあり周囲のいろいろな方に愛情をかけていただいてここまで来られたという想いが強くあります。あとは、単純に情熱をもって仕事をした方が世の中を面白く変えていけるのではないか、という想いを込めてこの企業理念にしました。特に創業期はかなり苦しい時期もあり、情熱しかないような状態だったので当時の想いも込められていますね。
経験と運を味方に乗り切った創業期
↑ 「普通にしか書けないですよ!」とおっしゃりながら書いてくださったサイン。ばっちり“サイン”でした(笑)
さすが、元放送作家!何気ない会話でも笑いを取ります。
放送作家からPR会社の経営者へキャリアチェンジする際、放送作家時代のご経験は活きましたか?
上岡:実は「何をやるか」は置いておいて会社を立ち上げる話だけを先に決めたので、どんな事業にするかが初めのうちはなかなか決まりませんでした。ただ、一緒に立ち上げた役員が光通信系列の企業で営業として鍛えられていた人間だったので、議論を続けていくうちに「私がモノを作って彼が売る」という方向性だけは定まっていきました。最終的には「PRならテレビ業界とのつながりもあるし優位性が保てるのではないか」という話になり、そういう意味では、放送作家時代の人脈やものの考え方は活かせたのではないかと思います。
放送作家時代の「ものの考え方」とは具体的にどのようなことですか?
上岡:テレビにどう出すかという戦略や、対象をブランディングしてコンテンツを作る術などですね。例えば「ミドリムシ」で有名なユーグレナさんの場合、私たちがPRのお手伝いをさせていただいた当時は、まだほとんど無名で、オフィスも大学構内にあり、社員も出雲社長含め十数名しかいない状態でした。マーケティングのためにアンケートを取っても「ミドリムシって気持ち悪い」といったような回答ばかりで、PRにあたっては「ミドリムシ」や「ユーグレナ」という言葉は使わない方がいいのではないかという話も出ていたのです。
しかし、私たちはむしろそれを上手に使ってブランディングをしましょうというご提案をしました。「へぇー、面白い!」と思ってもらえるようなユニークさや社会性を打ち出して世の中を驚かせましょう、と。具体的には『ミドリムシが地球を救う』というキャッチコピーを私たちで作り、その文脈で徹底的にPRを打ちました。出雲社長にも至る所でこのフレーズを言っていただいて、そこから会社のイメージも「気持ち悪い」というような次元から一気に上昇しましたね。
なるほど、面白いですね!そういったストーリーの作り方も、それを専門的にやってきた方でないとなかなか難しいですよね。
上岡:そう思います。ビジネスである以上、PRにも演出は避けられないものですが、どこまでは演出として許されて、どこからは許されないのかという境目が非常に難しいですよね。嘘はついちゃいけないけれども面白さやインパクトも大切ですし。それはテレビの世界も同じなので、そういう意味ではこの「ストーリーをどう演出するか」という点にも放送作家時代の経験が活かされているのかもしれません。
テレビなどのメディア側とのつながりは放送作家時代に築かれたものがあったと思うのですが、クライアントとなる企業の開拓やそこへの営業活動はどのように行なっていたのですか?
上岡:営業開拓の経験はなかったので本当にゼロからのスタートでした。プレスリリースを発信する企業に対して「お困りではないですか?」、「弊社はテレビに強いのでアプローチしますよ」という営業電話をひたすらしていました。一緒に立ち上げた役員が営業に強かったので、私がコンテンツを作って、彼が営業をするという住み分けをしていたのですが、私自身も営業は不得意ではなかったですね。今思えば放送作家時代は営業も自分でしていたので、これもその頃の経験のおかげかもしれません。そうこうしているうちに運よく1年目からお客様がついてくださったので、2年目には社員採用をはじめました。
2年目で人を雇いはじめるというのもすごく早いですね。
上岡:運も味方してくれたと思いますね、本当に。今振り返っても、コネも金も人脈も経験もない状態で綱渡りしながらも会社を経営できたのは、やっぱり運に助けられたのかなと。最初のお客様から発注をいただいた時には口座もまだ開いていなかったのですが、正直に話したら「いいよいいよ!一括で振り込むから口座を作ってよ」と言ってくださり、本当に1年分を一括で振り込んでくれました。あの時に発注していただけなかったら、給料も払えずに一緒に立ち上げた役員も辞めてしまっていたかもしれないと思うと、そのお客様に初めから巡り会えたことも運がよかったといえますね。放送作家時代は運がないなと思っていましたけど(笑)。
社長業はサバイバルゲーム
会社を設立して11年目とのことですが、創業当初にサブプライムショックやリーマンショックなどによる不景気も経験されていると思いますが、そういった時代はどのように乗り超えられたのですか?
上岡:サブプライムが設立3年目に来て、翌年がリーマンショック、とにかく大不況だったのでもう攻めるしかないと考えていました。日本全体が沈んでいたこともあり、とりあえず明るく前向きに元気に行こうという感じでした(笑)。会社の資金残高もどんどん減っていたのですが、「大丈夫!なんとかなる!」と自分に言い聞かせ、モチベーションを高めながらひたすら営業に行っていました。
不幸中の幸いだったのは大手の競合にも影響が出るくらいの大不況だったことです。大手に比べれば安かったというのも大きかったと思いますが、老舗がダメになった影響でうちに仕事が回ってくることもありましたから。大変ではありましたが、そうはいってもまだ二、三人の小さな所帯だったので、自分たちの食い扶持くらいは何とかつないでいけたという状態でした。私は株もやっていて、それなりに儲けも出しているのですが、不景気になった時に思ったのが「逆張りするしかない」ということでした。攻めるしかないと。
それで、当時不景気の影響で一気に拡大されていた助成金を使ってハローワークから四、五人採用しました。助成金があれば半分は無料だしいいやと。当時採用した社員が第2期創業メンバーと呼べるくらいに頑張ってくれたことも、景気が上向いた時に一気にブレイクできた大きな要因になりましたね。
不景気の時に勝負を挑めるというのは素晴らしいですね。怖くはありませんでしたか?
上岡:まぁ当時はそれしか選択肢がなかったというのが実情ですけどね(笑)。失うものは何もなかったので、攻めに転じるには今しかないのかなと。株で資産を築くには不況の時にどれだけチャンスを集められるかが大事だということを知識として持っていたのもよかったのかなと思います。ただ、やはり不況対策で国が雇用対策の助成金をどんどん出してくれていたのが一番大きかったです。だからこそ比較的簡単に攻めに転じられたのだと思っています。
今後に向けての展望がありましたら教えてください。
上岡:会社を立ち上げて3年くらいは上場も考えていたのですが、正直今はそういう気持ちがなくなっていて、11年目にして会社経営の目的をもう一度模索しているところです。人数を増やして拡大した方がいいのか、今残ってくれている社員を大切にして待遇をよくした方がいいのか、もう一度ビジョン立ち上げて上場を目指したり投資会社を入れたりした方がいいのか、もしくは自分が会長になったり、ホールディングスに入ったりして次世代にバトンタッチした方がいいのか。今はそういった色々な可能性を探りつつ、これから5年後のことを考えているところです。
創業してからずっと走り続けてきたのですが、実は昨年燃え尽き症候群のようになってしまい、会社を社員に任せて少し休んだ時期がありました。今はまたドライブがかかってきて元に戻っているのですが、自分が休んでいる間に成長してくれた社員がいることをうれしく思う一方、やはり自分が走り続けていないと目標を失ってしまう社員がいることもわかったので、今後も会社としての目標をどこに据えるかは慎重に考えないといけないなと思っています。とはいえ、社長業に関しては大変さよりも面白さの方が勝っています。サバイバルゲームをやっているような感じですね(笑)。これからも楽しみながらやっていきたいと思っています。
本日は貴重なお話をありがとうございました!
放送作家から経営者への転身という異色のキャリアを切り開いてこられた上岡さん。その過程にはさまざまなご苦労があり並々ならぬ努力をされてきたことと思いますが、どんなエピソードも「運がよかった」、「お客様に助けられた」、「社員に支えられた」という言葉で振り返っていらっしゃったのが非常に印象的でした。
上岡さんは「情熱をもって働いた方が世の中を面白く変えていける」ともおっしゃっていましたが、そんな熱い気持ちで未来に挑むビジネスパーソンが一人でも多く現れることを期待してやみません。