カルロス・ゴーン改革の渦中で学んだ実践型マーケティング・コンサルティングで湘南の地方創生

作成日:2016年11月28日(月)
更新日:2018年6月13日(水)

コンサルタントとしてクライアントに言っていることを実践できますか?

「コンサルタントのワークスタイル」、今回のインタビューは大野晴司さん。
自動車メーカーを経て独立し、中小企業診断士として、また過去のキャリアで培ってきた様々なスキルを武器に、地元企業の経営相談をメインに幅広くご活躍なさっている大野さんに、独立に至る経緯や、仕事が取れなかった時期のご苦労、地元企業への営業方法など、幅広いお話を伺ってきました。

大野 晴司

今回のインタビューにご協力いただいたプロフェッショナル人材・コンサルタント

東京都立大学(現首都大学東京)卒業後、日産自動車で国内のマーケティング部門や系列ディーラーでの営業マンを経験し、中小企業診断士資格取得のために退職。その後、マーケティングリサーチ会社、自動車関連メーカーを経て、2008年にビズ・エキスパート株式会社を設立。神奈川・東京の中小・中堅企業の営業力・マーケティング力支援のほか、経営企画業務、新規事業支援を主な事業として活動中。また、企業向けセミナー講師なども務める。 ビズ・エキスパート株式会社:http://b-ex.biz/index.html

大野 晴司

自動車メーカーで企業文化を変えようと奮闘した日々を経て、独立

-新卒で日産自動車に入社されていますが、文系の学部から自動車メーカーを選んだ理由は何だったのでしょうか。

大野さん(以下、敬称略):もともと個人のお客様に“夢”を売る商売がしたかったのです。個人のお客様が“夢”を持つというと、車、そして住宅かなと思い、自動車業界と建設業界を志望しました。最終的には金融業界も回って3つの業界すべてから内定をもらいましたが、やはり“モノ”でお客様に満足してもらいたいと当時の僕は思って、日産自動車に入りました。

-日産自動車ではセールスのお仕事をなさっていたのですか?

大野:実は入社して最初に配属されたのはマリーン事業部というボートを製造する事業部でした。内定をいただいた時点ではマーケティング職としての採用ということだったのですが、入社後に希望部署を聞かれた時に「どちらにしてもマーケティングに決まっているから」と思い、第三希望に「マリーン事業部」と書いたら私以外に誰も希望者がいなかったらしく、見事にマリーン事業部に配属になってしまって(笑)。

その後入社2年目に、新入社員全員に義務付けられていたディーラーへの出向に2年間行き、そこでの営業成績トップという実績もあって4年目にようやく国内マーケティング部門に移ってマーケティングのキャリアをスタートできました。紆余曲折はありましたけど、逆に言うとその経験があったからこそ、国内マーケティング部門に移った後はみんなが羨むような花形の仕事をさせてもらい、結果的にマーケティングコンサルとして独立するきっかけにもなったのだと思います。

-マーケティング部門に移られてからはどのようなお仕事をなさっていたのですか?

大野:最初の2年間でマーケティングのイロハを学んだ後、新型車の発売企画をする部署に異動して、93年にフルモデルチェンジをした7代目ローレルの新型車発売企画が最初の仕事でした。当時の日産の新型車立ち上げ業務っていうのは、一人が司令塔になっていろんな部署に方針展開するようなやり方をしていたので、その仕事をしている1年間ぐらいはほとんど毎日終電で帰宅していたのでかなりの激務でしたね。

ところが、残念ながらそのローレルは不人気車で、全然売れませんでした(笑)。結局デザインが良くなかったのが要因の一つですね。僕はそれをきっかけにプロダクトアウトよりもマーケットインっていう考え方のほうが大事だと肝に銘じるようになったのですが、日産は当時、完全にプロダクトアウト寄りでした。だからそのローレルも、最初はイタリア風のすごくいいデザインだったのに、社内の「イタリア車は日本人には許容できない」というような意見を中途半端に採り入れて、最終的には非常にアンバランスになっちゃって。

その後、バブル崩壊で急激に業績が悪化した時に、出向中に営業成績のよかった人間をもう一度現場に出せという話があがり、自分から手をあげて2回目の出向に出ました。ローレルが失敗したことに対する自責の念もあったし、日産はマーケットイン寄りに変わるべきだっていう確信もあったので、もう一回現場でいろんなことを吸収してからマーケティング部署に戻って、自分がマーケットインの会社にする、そういう影響力を会社に与えるという気持ちもありました。そこで出向から戻った後に担当した96年にフルモデルチェンジしたシーマの新型車発売企画は大成功で、大ヒットしました。

-その後、どのような経緯で独立に至ったのでしょうか。

大野:30代後半になって係長クラスになった頃、社内にはまだまだプロダクトアウトの人が多かったので、会社を変えるためにもう一回現場に出ようと思って、自分で手を上げて今度はディーラー本社のマネジャーとして出向しました。

同時期にちょうどカルロス・ゴーンさんの体制が本格化し始めて、理由は分りませんが、出向者に対する人事評価が急に厳しくなったのです。僕は日産を変えようとわざわざ自らきつい職場を選んでやっているのに、評価に繋がらない。それを知ったら「そうか、この会社は俺がこれだけ自分を犠牲にしてマーケットインという思想を根付かせようとしているのに、それをまったく汲んでくれないんだ」という気持ちになってしまって。もともとマーケティングのプロになりたいっていう気持ちもあったところに、たまたま中小企業診断士という国家資格があると知り、勉強し始めたら楽しくなってきたので、結局ディーラーへの出向期間中に退職して勉強に集中しました。

辞めた後、日産と取引のあったマーケティングリサーチの会社にスカウトされて営業部門の責任者のような立場で2年間お世話になったのですが、独立を決意し退職する2週間ほど前に、今度は日産時代にお世話になった上司から電話がかかってきて、日産の関係会社に誘われて、断れなくて入社しました。でも人間、楽をするとだめですね、給料もよかったりするとこれでもいいかとか思っちゃうし(笑)。

僕もそこで経営企画部長として業務に従事していましたが、3年目ぐらいに「やっぱり違う。なんで僕は日産辞めたのだろうか。何故ここで道草を食っているのだろう」と思って(笑)。もう一回奮起して、4年勤めた時点で退職しました。今から8年半前にようやく独立に至りました。

コンサルタントとしての自分の発言を実行できなかった試行錯誤の日々

-独立して一番楽しいことは何ですか?

大野:仕事面で言うと、法人化はしているものの一人でやっているので、完全に自分の時間をコントロールできることですかね。それはプライベート面も含めて一番いい部分だと思います。でも、いいことと言えばそれくらいかな(笑)。おかげさまで独立後2年目くらいからは、お仕事をちゃんといただけて収入は安定しておりますが、やはり一人であっても事業を運営していると厳しい状況もあって、そういう時のプレッシャーは半端ないじゃないですか。だからどうしても、楽しさよりもそういう厳しさが先に思い浮かんでしまいますね。実際、2~3年ほど前に、何社かの顧問契約が切れた時は、本当にしんどかったですね。

-仕事が取れなかった時期はどんなメンタリティーだったのでしょうか。

大野:正直に言うと、僕はやっぱり独立する器じゃなかったのかなっていう気持ちはすごくありましたね。やっぱり優秀な経営者っていうのは同業者でもいらっしゃるし、クライアントとか異業種でもいらっしゃいます。もちろん、皆さん表面上の部分と本音の部分は違うというのは理解してはいるものの、自分が落ち込んでいる時って周りの人とか環境が凄くよく見えてしまうので、それで余計にネガティブになってしまいます。

-どのようなことがきっかけで、ネガティブな状況から抜け出したのでしょうか?

大野:2年ほど前、ちょうどみらいワークスさんにお邪魔したのが抜け出し始めた頃でした。ぶっちゃけると、当時はランチェスター戦略が好きだったので、とにかく地元ベースで仕事をしようとしていました。ただ、そうやって地元に頼っている状態で顧問契約を切られてしまうとすごくインパクトが大きいですね。顧問契約だとずっと固定で行っているので、その間は営業活動をしなくても良いので楽ではあったのですが、その当時、8社ぐらい契約して頂いていたのがとある事情で契約会社が3~4社減り、収入も6割ぐらいになってしまいました。

それをきっかけに、自分のそれまでの営業スタイルに対して疑念が出てきました。もともと大きな企業の中心的な部門に在籍していましたし、もしかして自分は王道を進んでいた人間なのではないかと思い、地方で地道にやるのではなくてもう一度都心部での仕事にもチャレンジしてみようと決意しました。それで2年前から最近まで、研修講師の道を探ったり、コンサル派遣会社に登録したりしました。

でも結果的には、今の自分を支えているのはやはり顧問契約です。試行錯誤している内に地元の小さな企業の顧問契約がまた増えてきて、体制を立て直すことができました。ただ、そうやって動いたお陰で研修講師の話も年に10本弱ほど来るようになりましたし、みらいワークスさんともこうしてネットワークができました。当時の営業活動は、結果から見ると具体的な方針転換にはならなかったけれども、その成果が今プラスで乗っかってきているという意味では、もがくことは本当に大切なことだと思います。

営業は基本的に『量』なんですよね。量に勝るものはないので、まず量をこなしてから質を上げていく、これしかないと思います。だから当時も、自分がコンサルタントとして言っていることを冷静に考えて、焦らず地道に量をこなす努力をしていればよかったのですが、「営業は量だ」って偉そうに言っておきながら実際に迷ってしまった時にはそれができなかったわけで、あれは私の人としての弱さだったなと思います。そういった意味でも、あの時のことはいい勉強になりましたね。

実務のできるコンサルタントとして経験の全てを武器に戦う今

-地元での営業というのは具体的にどのような活動をされているのですか?

大野:僕はコンサル業界出身ではないので、いまだに「コンサルとはこういうものだ」っていう確固たるものがありません。なので、マーケットインの発想で「自分がこうされたら嬉しいだろうな」っていうのを一生懸命想像するのですが、そのやり方がコンサルとして正しいのかどうか、あまり自信がないのです。

ただ、逆に僕は実務ができるという強みがあるので、相談を受けるのではなくて実務的に支援するという方法で差別化を図っています。マーケティングのコンサルタントでもあり、広告代理店でもあると言いますか。

例えば、既存顧客への挨拶状やDMといった訪問ツールのデザインを月々のフィーの中でやってあげると、小さな企業にとってはデザイン単体で外注するよりコスト削減になるわけです。もちろん広告代理店ほどのクオリティではないですが、あるレベル以上のデザインもできて、研修講師もVBAもできて、さらに中小企業診断士という資格も持っているという、ここまでのスキルを重ね合わせて持っている人材って実は万単位に一人くらいしかいないと思うので、だから地元の小さな企業さんには受けているのかなと思っています。究極のワンストップサービスですね。

-今の仕事でやりがいを感じるのはどういう時ですか?

大野:それはもう明確ですね。やはり「大野さんってすごい」って言われるのは快感ですよね(笑)。手前味噌ですけど、日産時代からそういうことを言われる場面というのはありました。でも当時は格好をつけていたので、そういうことを言われても素知らぬ顔をしていましたが、この年齢ですからね、もう全力で喜ぶ(笑)。まだまだ自分は現役だなと思えるし、やはり嬉しいですよね。特に、顧問先で指導した営業のノウハウで契約が取れたり、同行訪問をして上手く行ったり、やはり売上アップに繋がる支援が出来て、しかも顧問先に喜んでもらえる時は、なおさら嬉しいですね。

ここだけの話ですが、僕の営業スキルの原点は学生時代のディスコでのナンパなんです(笑)。知らない人に自分をどうやって売っていくかというのは、まさに営業で。学生時代の売り子のバイトは完全にディスコのノリでやっていて、これは車を売るのにも通用するのだろうかと思ったら、まさしく通用したわけです(笑)。営業2年目で営業所のトップセールスになれるとは、思ってもみませんでした。ナンパと営業じゃもちろん相手は違いますけど、基本的に他人に自分を売りこむ時には自分をおもちゃにしなきゃいけないようなところがあるというのは同じで、自分という素材で楽しんでもらえると相手も壁を取っ払ってくれるし、自分がさらけ出して話せば相手もさらけ出してくれますよね。

-これからはどういう仕事に従事していきたいですか?

大野:年齢を重ねるとどうなるのかっていうのも気になりますが、マーケティングでビジネスをしたいという気持ちもありますね。やはりビジネスをやらずにコンサルティングだけやっていても迫力がないというか、クライアントにも「どうせ能書き垂れているだけだろう」とか思われちゃう気がするので。そういった意味で、ビジネスの感覚をもう少し養いたいと考えています。それでマーケティングビジネスを幾つかやりながら、経営相談にも乗りたいし、研修講師も意外と評判が良いので継続していきたいなという贅沢な思いはあります。

でも商売というのは難しいもので、ビジョンを描くのは凄く重要ですけど、目の前にあるものをしっかり確保していくということも重要じゃないですか。だからそういう意味では、あまり長期的なビジョンというのは明確にはないのかもしれません。今従事していることをきちんと続けていくことがまずは一番かなと。