見えないことに支えられて、成り立っている“今”。すべては自らに繋がる“自分事”なのです。

作成日:2017年6月14日(水)
更新日:2017年7月12日(水)

3.11発生後、今後の日本がどうなっていくのかを知るためにチェルノブイリへ。錯綜する情報や、自分の生活が成り立っていることへの“正しい”理解とは

先日、震災の地である宮城県の石巻市に、3.11以降に初めて訪れました。何度か行こうと思いながらもタイミングが合わず、なかなか訪問できないまま時が過ぎてしまいましたが、6年経った今、やっとその機会を得ました。
 

まず、石巻市内の高台の日和山公園に足を運んだところ、そこにたまたま居合わせた地元の方が震災当時の話を聞かせてくださいました。この公園は市内の高台にありまして、津波が来た際には何人もの人が避難して難を逃れた事から「命の高台」とも呼ばれています。テレビでも何度か放送されていた場所です。“あのビルに何人が避難した”“あそこにあった工場から避難してきた人がいた”“あそこに見える小学校の2階と3階には1500人が避難して一命をとりとめた”“この山には多くの人が避難してきて、自衛隊が来るまでの一週間のくらい間ビスケット2つ、バナナ半分、イチゴ1個で過ごしていた”・・・といった臨場感あふれる話を聞かせてくださいました。一旦は山の上に避難したにも関わらず、「子供が見つからない」と探しに行って亡くなってしまったたくさんの親御さんたちのお話など、生々しく胸を締め付けられる場面もありました。

東日本大震災

6年経った今でもそこには空き地が広がっており、少しの家屋が建っているだけの状況を見ると、まだまだ復興したとは呼べない状況なのだと改めて感じます。東京などの被災地以外の場所に住んでいると、時間の経過と共に震災の記憶は薄れていきますが、この土地に住んでいる人の心の中には常に現在進行形として存在しているのです。

2011年震災の年のGWには、復興支援のボランティアの為東北に行く人が多かったと記憶しています。私自身もその現場に行きたいという気持ちもあったのですが、原発事故が起きた後どうなっていくのかを感じてみたいと思い、GWを利用して旧ソ連、今はウクライナにあるチェルノブイリを訪問しました。過去に原発で大きな事故が起きてしまった土地です。当時チェルノブイリ原発事故からちょうど25年を迎えた時期だったので、福島の25年後はどうなるのか?だから今どう行動すべきなのか?といったことを知りたいと思い、現地へと向かいました。

チェルノブイリ

原発事故が起きた一帯は、現在は軍が管理しており、軍のツアーに申し込まなければ周辺に立ち入ることは出来ません。25年経っても未だ対応は続いており、多くの方が放射能対策などを続けているとのことでした。また周辺では廃墟となった街や住居などがそのまま残されています。ソ連時代の肖像画や、コンクリートの広場でコンクリートの間から20メートルくらいの大木が生えている様子などから“25年”という歳月を感じる反面、25年が経過してもまだ自然に完全に飲み込まれているわけではない状況などを目にしました。

ホットスポットと呼ばれる局所的に放射能が高い場所もあり、車で移動中にたまたまその場所を通りかかりました。「そろそろホットスポットだよ」と言われると、突然「ピー!!」とガイガーカウンター(放射線測定器)の警告音が鳴り響き、現実のことなのだと感じさせられました。また動物の骨などに蓄積された放射能などを測定し、生命への影響なども目の当たりにしました。

チェルノブイリ

このような経験を通じて自分なりに学んだことは、『放射能の存在と付き合い方』です。3.11がきっかけで東京を離れて関西に戻った人や、移住した友人などもいました。当時のメディアでは放射能に対してさまざまな報道がされていましたが、事実と解釈の違いが判りづらく、結果として人によって言っていることが異なっていた為、そこから放射能について深い知識を得るのは難しかったと思います。チェルノブイリでは、窓もなくなっている住居の中と外での放射能の強さの違い、放射能が溜まりやすい場所などについてさまざまな説明を受けました。それまで放射能は“目に見えない得体のしれないもの”という印象だったのですが、正しい知識を得てその動きを体感すると、怖いものではなくうまく付き合う事も出来るものなのだと感じました。

事故が起きた原子炉はコンクリートで囲まれていて、”石棺”と呼ばれています。実際にガイガーカウンターを持ってその石棺に近づいていくと、数歩で放射能が倍に上がっていきました。途中で軍人に止められそれ以上近づくことはできませんでしたが、 目に見えない放射能が近距離で高まっていく状況を肌で感じる緊張感、まるで全身の毛穴が開くような感じを味わいました。とてもためになる経験をすることができました。

チェルノブイリ

チェルノブイリを訪れて強く思ったことは、「科学が進歩することでもちろん生活は豊かになるけれど、そのぶん代償も払っているのだ」ということ。廃棄物から放射能を完全に無に戻すことは難しい為に、廃棄物処理は方法が難しく、不可逆な取り組みによりエネルギーを得ているという見方もできます。日本でも地層処分などその破棄を進める機構がありますが、想定通りには進んでいない印象ですので、大きな課題を持ちながら進めてきた事業なのでしょう。かつて大部分を化石エネルギーに依存してきましたが、原発依存を経て、3.11をきっかけに自然エネルギーへの注目が高まってきたのも、自然の流れなのかもしれません。

チェルノブイリ

なにかを得るために、自分たちが気づかないところ、見えないところでなにかを犠牲にしているかもしれません。我々の豊かな生活はこういった何らかの犠牲に支えられており、それを認識しなければならないのです。原発事故が起きた時にも、それを起こした企業などを悪者だと思うことや批判するのは簡単ですが、そういった方々の働きがあって私たちの豊かな生活が実現されていることを思うと、他人事では済まされません。これからも世の中の動きを“自分事”として捉え、アンテナを張っていきたいと思っています。